【夢を叶えた男たちの少年時代】平石洋介楽天2軍監督(幼少期篇)

右へ左へ。選手と同じ動きで、グラウンドを駆け回る平石洋介2軍監督(37)の姿。顔は黒く日に焼けて、ファームで汗を流す選手と見間違えてしまう。
「何でもやりますよ!2軍は打撃投手がいないですからね」
ノックが終わった足で、そのままマウンドへ。桝田慎太郎選手、福田将儀選手らが立つ打席へ、1球1球、熱のこもった球を投げ込んでいった。PL学園―同志社大学―トヨタ自動車。アマチュア野球のエリート街道を経て楽天に入団した“生え抜き選手”は、現役時代と変わらぬ情熱で、選手育成に全力を注ぐ。12球団最年少監督。同じ目線で選手と向き合い、“プロ”としての厳しさ、必要なスキルを選手に教え込む。若くして高い評価を得ている熱き指導者は、果たしてどのような少年時代を過ごし、野球道を歩んできたのか。その生い立ちと、乗り越えてきた苦悩、転機について語ってもらった。

2017.06.19

地域の大人に可愛がられた「バケツくん」

大分県杵築(きつき)市。杵築城を望む国東半島南端部の町で、洋介少年は生まれた。6歳上の兄、4歳上の姉を持つ3人兄弟の末っ子。杵築高校野球部で内野手として活躍した父・功さんの影響で、家族の会話が自然と野球の話になる、そんな野球一家に生まれ育った。

長男の光一郎さんが、地元の少年野球チーム「臥牛(がぎゅう)」で野球に熱中しているころ、洋介少年は祖父・茂さんが運転する自転車の後ろに乗って、見学に通っていた。それも、ほぼ毎日。当時はまだ幼稚園児。兄のように、投げる、打つ、の野球はまだできなかったが「ボール拾いだけは負けないぞ!」と活発にグラウンドを走り回っていた。

高校野球で活躍した父・功さんの野球熱で、野球一家に育った洋介少年
高校野球で活躍した父・功さんの野球熱で、野球一家に育った洋介少年(右前は姉・京子さん)
そんなけなげな姿を見たチームの関係者が、つけたあだ名は「バケツくん」。
小さい体に、大きなバケツ。背負った格好が愛らしくて「バケツが歩いているようだ」と笑われた。野球を通じて、地域の大人みんなが洋介少年を可愛がった。あの頃の野球は、楽しかった思い出しかない。

「本当に、落ち着きなくチョコチョコしていましたね。毎日のように練習を見に行って、背負ったバケツにボールを入れていくのが僕の仕事。本当は3年生からチームにしか入れないのですが、あまりに毎日来るので、まだ幼稚園児なのに“特例”で入団させてもらったんですよ。張り切って練習していましたよ」
両親が共働きだったため、世話をしてくれたのは祖父・茂さん、祖母・ぬいさんだった。テレビゲームをするよりも、外で体を動かすことのほうが大好きだった洋介少年。茂さんとの「野球あそび」は忘れられない。

地元・大分は巨人人気が高かった時代。ジャイアンツの野球帽をかぶりボールを追いかけた幼少期
地元・大分は巨人人気が高かった時代。ジャイアンツの野球帽をかぶりボールを追いかけた幼少期
「チームの練習がない時も、カラーバットと、ビニールボールでいつも野球をしていましたね。家の前にちょっとした空き地があって、向こう側に川があったんです。じいちゃんが投げたボールを僕が豪快に打つから、いつも川にポチャン(笑)。何度も川にボールを取りに行ってくれたじいちゃんの姿を思い出しますね」
目の前に野山が広がる風光明媚な大分の土地で、洋介少年の野球はどんどん上達していった。
小2で芽生えた「甲子園でプレーしてみたい」という夢

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