「文武両道 ー親から見た野球と教育ー」宮台忠さん(前編)

この秋のドラフト候補、東京大学のエース宮台康平投手。「東大史上最高の投手」とも言われる左腕はどのような家庭で生まれ、どのような少年時代を過ごし、どのように勉強と野球を両立していたのか?父親として息子の成長を見守ってきた宮台忠さんにお話を伺いました。

2017.09.13

東京六大学に憧れていた父・忠さん

立教大時代は母校の学生監督を務める


――今日、ここに来る前に宮台さんのことを調べていたのですが、中学時代に全国大会に出ているのですか?
宮台 はい、横浜市立新田中のサードで全中に出場しています。その頃が、人生のピーク(笑)。チームメイトにうまい選手がたくさんいて、特に光っていたのがショートの富岡武君。その後、神奈川工、日立製作所でプレーしたのですが、彼の息子さん(富岡優太)もまた素晴らしい選手でした。日大三高から明治大に進み、優太くんが4年生だったときに神宮で康平と対決しました。それは嬉しかったですね。

――何だか壮大なドラマのようですね。宮台さんは新田中を卒業したあと、県内屈指の進学校・横浜翠嵐に進まれています。
宮台 私学からも誘いがあったのですが、勉強も野球もしっかりとやって「東京六大学でプレーしたい」という想いで横浜翠嵐に入学しました。中学生のとき、塾の先生が早稲田大のOBで、「早稲田はいいぞ」と言っていたのが子どもながらに印象に残っていたんです。のちに、本当は早稲田大のOBじゃなかったことを知って、ショックを受けるんですけどね……。

――ひどい話ですね(笑)。当時の翠嵐は強かったのですか?
宮台 1学年上が強くて、横浜と延長戦をしたり、夏の大会では桐光学園と向上に勝ったりしていました。私の代はシード権こそ獲ったんですが、夏は2回戦で舞岡に負けています。人数が少なかったこともあり、私はキャッチャーに回り、エースになったのがのちに東大でキャプテンを務める町永智丈君。同級生は、20名近く東大に進んでいました。

――当時、宮台さんの中にも勉強もしっかりしなければいけないという気持ちはあったのですか。
宮台 その塾の先生の影響もあって、六大学でやりたいというのが一番でしたね。勝手な考えですけど、強豪私立に行くと、そこで消耗してしまって、上で野球をやる余力や気力がなくなると思っていたんです。ところが、翠嵐も22時半帰宅で、練習が厳しくて驚いたんですけどね。

――私立並の練習量だったのですね。高校時代の思い出はありますか。
宮台 3年夏の初戦でホームランを打って、相手の厚木東高校の監督から「ぼくは慶応出身なんだけど、勉強して、慶応にこないか」と声をかけられたのを覚えています。それでまた六大学でやりたい気持ちが沸いてきましたね。

――もしかして、その監督は……?
宮台 上田誠さん(前慶応義塾監督)です。のちに上田さんに聞いたら、「覚えてない」と言われましたけど(笑)。ただ、そこからの受験勉強はなかなかうまくいかずに、二浪の末に立教大学。先輩から硬式野球部に誘われたんですが、体重が落ちていたこともあって、自信を持てませんでした。そんなとき、母校の翠嵐から「コーチをやらないか」と誘われて、生意気だった私は「監督やらせてください!」と言ったんです。学生監督を2年ほどやらせてもらって、下級生には間宮敦君という、のちに東大で首位打者を獲る選手もいました。

――お話を聞いていると、東大という存在が身近にあったんですね。
宮台 そうですね、自分自身の学力では雲の上の存在でしたが、周りには“東大”が多い環境ではありました。
負けず嫌いな康平少年、小学1年で「ハリーポッター」を完読

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