【プロ野球選手の少年時代】ノビノビ楽しくバットを振っていた日本一の遊撃手(前編)

2017年のプロ野球で頂点に立ったばかりの福岡ソフトバンクホークス。その最強軍団にあって「不動の遊撃手」として2年ぶり8回目の日本一に貢献したのが、言うまでもなく今宮健太内野手だ。

2017.11.08
明豊高時代に3度の甲子園を経験し、3年夏はベスト8に進出した。2009年にドラフト1位でソフトバンクに指名されると、2013年以降は4年連続でゴールデングラブ賞を獲得。2014年にはベストナインにも輝いている。

侍ジャパンにも日米野球やプレミア12などで計4度選ばれるなど、球界を代表する遊撃手として、押しも押されもせぬ地位を築いた。

そんな今宮選手は、いったいどのような幼少期を過ごしてきたのか? 彼が所属した別府大平山少年野球部(大分県)の監督で、今宮選手の実父にあたる今宮美智雄さんに少年期を振り返ってもらった。

「とにかく野球が好きで好きでたまらない子でした。私もふたりの兄も高校野球経験者で、私は少年野球の指導もしていることもあって、24時間野球に囲まれた生活を送っていましたね。練習のない日の遊びも野球ばかりしていました。壁当てを始めると『そんなに投げるな』とこちらがストップをかけるまで続けていたし、チームの練習後もグラウンドに残って野球している。お客さんが来れば家の中でキャッチボールをしていたし、ボールを握っていないということがありませんでした」

幼少期の今宮健太(現福岡ソフトバンクホークス)と父の今宮美智雄さん

小学校に入って父が率いる野球部に入団した今宮選手は、類稀な運動神経を活かしてみるみると頭角を現していく。6年時には投手としてもチームを引っ張った。

「子ども時代も体が大きかったわけではありません。ただ、飛距離は出ていましたね。当時から右打ちが上手く、内角球を押っ付けて逆方向に大きな打球を連発していました。また、投手をやらせてもバント処理は際立って速かったですよ」

美智雄さんは息子に対して練習の日課をいっさい与えていなかったという。ただ、母の一子さんがクルマのヘッドライトで照らしながら夜間のティーバッティングに付き添っていたことが、今宮選手のスキルアップに大きく影響したのではないかという。また、食事に関しても体を大きくするための特別メニューを与えていたわけではない。
では、飛距離はどのようにして作られていったのか?

「“遊び心”を持って練習していたことがよかったのかもしれません。私の指導方針でもあるのですが、型にはまった練習よりもノビノビと楽しくバットを振らせる。それが健太にはしっくり来たのでしょう。時間さえあれば高校野球やプロ野球を観に行っていたので、そこで見たプレーを無意識のうちに再現しようとしていた。その点はたしかに非凡だったかもしれませんね」

小学生時代は打率7、8割だったという小学生時代の今宮健太

凡打の記憶はほとんどないらしく、美智雄さんによると大会での打率は毎回7、8割は残していたのではないかという。これだけ自在にヒットを重ねる選手であれば、打ちたい気持ちが強すぎてボール球に手を出しがちなのだが「ボールを振ることはなかったし、空振り自体がなかった」と美智雄さんは振り返るのだった。


今宮選手は「プレー」と同じくらい「観る」ことが好きだったという。福岡までプロ野球観戦に行く際には、決まった行動パターンがあったという。

投手をやらせてもバント処理は際立って速かったという小学生時代の今宮健太
まずは福岡のバッティングセンターで数ゲーム打つ。そして雁ノ巣球場で二軍の練習と試合を見学する。その後、再びバッティングセンターに行き、夜は福岡ドーム(現ヤフオクドーム)で一軍戦を観戦した。2日目も午前中にバッティングセンターで打ち込み、その後に雁ノ巣で二軍戦を見学し帰路に就くのだ。

また、自宅でテレビ観戦している時にも今宮選手の観察眼は鋭く「あ、秋山選手(幸二、前ソフトバンク監督)はさっきとバットを変えているよ」と家族の誰もが気づかない点を指摘していたという。


中学校は地元の明豊中に進み、学校の軟式野球部でプレーした。多くの硬式クラブから誘いの声はあったが当時、明豊高校を指揮していた大悟法久志監督(故人)の勧めもあり、明豊中への進学はいっさいの迷いもなかったのだという。もちろん両親サイドから「ああしろ」、「明豊に行け」という指示はなく、本人の意思がそうさせたのだ。



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